子規庵は近代俳句と短歌の世界を作り上げた正岡子規が晩年を過ごした家です。
子規は故郷・松山から母と妹を呼び寄せここで生活していました。
今回は、この子規庵をご紹介していきます。
◆子規庵とは・・
子規はここで度々俳句や短歌の会を開き、短歌の会は地名にちなんで根岸短歌会と呼ばれていました。
伊藤左千夫、長塚節なども参加しており、彼らは根岸派と呼ばれていました。
子規庵の中は当時の趣をそのまま再現してあります。
住宅街の中にひっそりと静かに佇む子規庵の庭には当時の子規が見たであろうへちまや鶏頭が植えられています。
子規は晩年結核菌が脊椎を侵す脊椎カリエスという病気にかかり、座ることも難しい激しい痛みに耐えながらここで生活し、俳句や短歌に力を注いでいました。
"糸瓜(へちま)咲いて痰のつまりし仏かな"
子規庵の二間続きの和室からは庭のへちまがよく見えます。
へちま水は病気の治療に使われていました。妹・律の献身的な看護を受けながら自分の死と向き合っていたのです。
子規は病が悪化して、明治35年、35歳の若さで亡くなっています。
横になってみると当時の子規の視線の先にあるものがよくわかります。
教科書などに載っている子規の写真はなぜか横向きのものですが、病気になってから座るのも難しくなり、正面からの写真は撮れなかったのだと言います。
脊椎カリエスは不治の病でした。
◆正岡子規という人物
「子規」という雅号はホトトギスのことです。
ホトトギスは口の中が真っ赤な鳥で血を吐いて鳴くという故事があり、病気になって血を吐く自分の姿と重ねあわせて雅号にしたのだと言われています。
子規はいくつもの雅号を使い分けていて、若い頃の雅号の中には「野球」というものもありました。
自分の幼名「升(のぼる)」とかけて「のぼーる」と読ませていたようです。
「ベースボール」の日本語訳ができる前のことでした。
意外かもしれませんが、子規は若い頃は野球に夢中で、文学を通じて野球の普及に努めたため、野球殿堂入りしています。
子規は俳句雑誌「ホトトギス」を創刊しました。
ホトトギスには当時イギリスに留学中だった夏目漱石がロンドンの様子を書いた「倫敦消息」を寄稿しています。
漱石と子規は帝大時代からの大親友でした。
漱石の松山中学赴任中は子規と同居して俳句の弟子になっていました。
子規がなくなった後、「ホトトギス」で連載したのが「我輩は猫である」でした。
子規庵は明治の文学を生み出す大切な場所だったのです。
◆子規の足跡を感じる
2017年は子規の生誕150年でした。
明治という新しい世の中になって、文学を通して世の中を変えてきた子規。
子規の足跡はこの子規庵の風景の中から生まれたものです。
現在の子規庵は住宅街の一角になっています。
あまり目立たない外観ですが、地元のボランティアの手も借りながら運営されています。
へちまを始め庭には季節の草花が植えられ、メジロやヒヨドリなどの野鳥もやってきます。
こじんまりとした中で、さまざまな手作りイベントも行われます。
どこか懐かしさも感じるちょっとほっとするスペースです。
【施設情報】
店名:子規庵
住所:台東区根岸2丁目5−11
アクセス:JR鶯谷駅北口改札から徒歩4分・東京メトロ日比谷線入谷駅2番出口から徒歩11分
TEL: 03-3876-8218
営業時間: 10時30分~12時00分、13時~16時
定休日: 月曜日