寛永寺は徳川将軍家の菩提寺として、江戸時代には大いに栄えました。
寛永寺は江戸幕府第3代将軍の徳川家光が開基した寺で、初代住職は初代将軍家康、2代将軍秀忠、3代将軍家光が帰依した天海です。
そもそも、江戸は陰陽道の思想に基づいて整備された町で、寛永寺は江戸城の鬼門の方角に配置され、江戸を鎮護するという目的がありました。
今回は、この寛永寺について紹介していきます。
◆繁栄する寛永寺
江戸城の裏鬼門の方角にあたる増上寺は既に存在していた寺でしたが、鬼門の方角にあたる寛永寺は徳川将軍家が開基した寺です。
第2代将軍の徳川秀忠は、天台宗の僧、天海に上野の地を与えたのですが、寛永寺の境内地となる土地は、伊勢津藩主の藤堂高虎、弘前藩主の津軽信枚、越後村上藩主の堀直寄の下屋敷があったところでした。
それらの屋敷地を幕府が収公して寺地にあてるほど、寛永寺は幕府にとって重要なものでした。
寛永2年(1625年)には本坊が建立されてこの年が寛永寺の創立年となり、寺号は当時の年号をとって寛永寺とし、京の都の鬼門北東を守る比叡山に対して、東の比叡山という意味で山号を東叡山としました。
天海の没後には、天海の弟子の公海が寛永寺貫主に就きましたが、その後には、寛永寺の貫主は天皇の皇子、猶子が務めるようになり、絶大な権威と権力を持つようになりました。
最盛期の寛永寺の境内地は、現在の上野公園の敷地の2倍の面積だったと伝わるので、寺の繁栄ぶりがわかります。
◆往時の寛永寺
現在の上野公園入口あたりの道はかつて広小路と呼ばれ、将軍が寛永寺の歴代将軍の霊廟に参詣するための参道でした。
境内には文殊楼、法華堂と常行堂、多宝塔、輪蔵、根本中堂、本坊などが存在し、その周囲には清水観音堂、五重塔、東照宮、不忍池の中島に建つ弁天堂などが建ち、36の子院がありました。
◆歴代将軍の墓所
寛永寺墓地には、徳川将軍15人のうち家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定の霊廟があり、厳有院(家綱)霊廟と常憲院(綱吉)霊廟の建築物群は、東京の観光名所として知られ、旧国宝に指定されていた歴史的建造物でしたが、昭和20年(1945年)の空襲で大部分が焼失しました。
しかし、焼け残った厳有院霊廟勅額門、同水盤舎、同奥院唐門、同奥院宝塔、常憲院霊廟勅額門、同水盤舎、同奥院唐門、同奥院宝塔は現在重要文化財に指定されています。
◆その後の寛永寺
江戸時代には大いに繁栄した寛永寺ですが、明治維新の際、寛永寺は慶応4年(1868年)に幕府軍と官軍が戦った彰義隊の戦いの戦場となり、主な建造物は焼失しました。
さらに、明治新政府からは境内地を没収され、寛永寺は壊滅的な打撃を被りました。
その後、寛永寺は規模を大幅に縮小して復興し、第二次世界大戦の戦災を免れた寛永寺の古建築物は、元の寛永寺の境内地にあたる上野公園内各所に残されています。
寛永寺は来る創建400周年(2025年)に向けて、上野に刻まれた歴史の重みを今に伝えています。
【スポット情報】
スポット名:寛永寺
所在地:台東区上野桜木1丁目14−11
アクセス:JR山手線上野駅公園口改札から徒歩4分・JR山手線鶯谷駅南口改札から徒歩2分